ある人はいう。人生の目的は?「悦び溢れる存在になること」と・・・
本当の意味で悦び生きることを許さなかったのは、自分の知性や創造力を信じようとしない自身の疑念からくる。
この人生の目的は、様々な機会を通して悲しんだり、悦んだり、怒ったり、憎んだり、良い子ぶったりする自分という者を理解し、そのすべてを悦び溢れる方向に意識を向けていくこと。
創造主のただひとつの望みであり、存在のあるべき姿の究極とは、「悦び溢れる存在になる」こと、悦びが自分にとって何を意味しようとも、自分の本質=神が幸せで悦びに溢れていればいるほど、本質=神に近い姿にあるということ。
最も醜悪なものから最高の美まで神は何でも好きなものを創造できる力を与えた。
悦びとは一体何なのか?悦びとはまったく邪魔の入らない動きの自由なこと、価値判断のない表現の自由・・・恐れや罪悪感のない存在のこと。悦びとは、自分が自分自身の条件で人生を創造していることを知っている状態のこと。
悦びがすべての状態のなかで最も偉大な理由は、人が悦びの状態にあるとき、その人は本質=神と共に在る。その流れの中では嫉妬や怒りや反感あるいは戦争などが存在する余地は無い。悦びが高じた状態にあるとき、反感を持ったり、不安になったり、恐れや怒り、あるいはなにかが足りないと感じることは無い。
悦びの状態にあるとき、人は満たされてすべからき者になり生命と叡智、そして創造性がまるで激しい流れの川のように内面から湧き出してくる。
悦びの状態にあるとき、人は内面から突き動かされ最高の偉大さを示し、深い感情を感じる。悦びがあれば人は老いていくことをやめ永遠に生きる。
人生はもはや重荷ではなく、求めても求めたりない驚くべき冒険となる。悦びが目に見える時、自己という自分の世界とひとつになっており、そのような状態にあるときユートピアを見つけていることになる。
悦びが溢れた状態にはどうしたらなれるのか?それは自分が意図したような人生を望み、そして実際に行動してみて人生のあらゆる瞬間が悦びを表現する機会と自由を与えてくれるのだと知ることによってである。
なにがどうあろうとも自分自身を完璧に愛すること。自分を愛している瞬間は神=本質を愛している時でもある。人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない。自己を抱き受け入れるという、その場所から自由が存在していく・・・悦びが生まれるのはその自由から・・・
悦びが生まれてはじめて神=本質を見ること、知ること、心に抱くことが出来るようになる。
最も偉大で深く意味のある愛とは、肉体のなかにあって動き、思索し、創造し、赦しそしてただ在る・・・この偉大な生き物である純粋で無垢な自己に対するもの・・・どんな自分でもその在るがままを愛する時、内に在る偉大な本質を知ることが出来る。
自分を本当に愛するとき、その光、パワー、幸福、底抜けの明るさ、その楽しそうな状態が知らず知らずのうちに全人類へと広がっていく・・・自己への愛の為に自己を満たす為に生きること以上に偉大な人生の目的はない。それを成し遂げる為には人生に飛びこみ、自分に幸せをもたらすことを実行すること。
例え、それが何であっても、それは間違っているとか、自分にとって良くないなどと一体だれが言えるのか・・・神は絶対にそのようなことは言わない・・・
外の人間にどう思うか尋ねたりしてはならない。外の人の体験はその人の歩んだ道の結果であり、自分の歩む道、自分が学習せねばならない事とは同一ではない。その人も同様に制限を持っているというのに、こちらの悦びについて一体何を知っているのか・・・神なる存在は、悦び溢れる人間になるよう迫っている。心を開いてそれを受け入れるのを、いつもすぐ側で待っている・・・。
自己への愛、そしてその悦びのために生きる時、最も偉大な運命に向って生きていることになる。そして奇跡的なことを成し遂げるだろう。
自分の人生を苦しんで生きるのも、悦び溢れる人生を送るのも自分次第・・・。
この文章は、先日酒を飲みすぎて「また、ころんだ。あーあ本当に反省しなくちゃ」と思った時に読んだのでちょっとビミョーだった。
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